昭和53年01月25日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 金光大神の言う事に背かぬようにとあります。まずお道の信奉者の一人一人が、金光大神への帰依者でなからなければならんと言うのである。金光大神を知らず、金光大神を疑うてはもう金光教は成り立ちません。そこで金光大神の教えて下さる事を、守らせて頂いて行く内に金光大神の教えられることが、こんなにも素晴らしい事で、こんなにも間違いのない事が段々分かるに従って、帰依の度合いが強うなって参ります。
 最近お道で言われる生みなす信心といわれる、生みなすと言う事は所謂神様と私共の交流、そこから生みなされるおかげが見えてくるのです。ですから金光大神えの帰依がなかったら、本当の交流と言う事にはなりません。そこで金光大神の教えられたことを段々に行じさせて貰い、守らせて貰うて、今日の私があり、今日の合楽があるのです。そこで大体私の信心を皆さんが研究して下さる、私の信心を体得して下さる。
 そこからまあ言うならば私への信用、まあ言うならば私への帰依、そこから私と皆さんとの間の交流が始るのです。親先生はああいいなさるけれどもと、まだけれども付きの間は、言うならば本当の帰依が出来ていないと言う事です。今朝からこんな夢を頂いた。私がどこにか養子に行くことになっている、行き先はどこなのかと思っておりましたら、元椛目に大漁さんという方がおられました。この公子先生の叔母さんに当たる方です、今内田さんたちが居られる家におられて、小さい小商いをしておられました。
 大漁志香野さんの所に私が養子に行く事になっておる、大漁と言うのは魚ですね、さかないわゆる沢山の魚が取れる時に大漁と申しましょう。の大漁です志香野というのです志香野、どういう事だろうか。昨日一昨日或るお婆ちゃんが、或るお婆ちゃんというが。今日名前をいうても良いけど、この前の続きがあるから申し上げられませんが、ここの中村徹美君がスト一ブを入れてあげた、そのお婆ちゃんが大変に喜ばれた。
 あまり人から好かれん、あんまり人から大事にされない、まあ嫁御からでもあんまり大事にされないと言う様な、まあ云うならタイプである。信心はもう永い、遠いところからやっぱり参ってみえる、けれども口を開かれると不平不足である。結局大事にされないから、そうですね。不平不足がやっぱり出て来るわけでしょう。けれども不平不足をやはり大事にされないというもと、こちらにあるわけですよね。本当はところが昨日一昨日はお礼参拝がありましてから、本当に感動一杯でお届けがありました。
 というのはこんな大きな御神米入れを持って居られます。先日或る所へバスでやらせて頂きました、もう雪解けの道はドブドブの様な所でした。バスに乗り降りどっちかの時にどうしたはずみか転ばれて、もうてっきり足を折った腕を折ったかの衝撃があった。もう手にも足にも包帯してみえておりましたが、もう着物がどろどろになっていました、それが着替えなんて医者に参りましたら、どこもどうもなっとらん。そしてから着物を解いてから驚いたことは、この大きな御神米入れがありますね。
 小さい方じゃなくて、あれがこう真っ二つに折れとった、というてその御神米入れを持ってもう神様が、身代わりに立って下さったというのはこう言う事だらうかと、いうわけです。そのお婆ちゃんが、そういうお届けをし終わってから、先生私は今朝方からこんな有り難いお夢を頂いたと云うて、あのお届けをされるんです。親先生がもう一糸まとわない真っ裸で、向こう向いて立っておられる。もうその裸の色の美しいこと桜色と云うですか、それこそ見事な肌いろ、それこそ一糸まとわず向こう向いておられる。
 そしていつでもよいからおいでと言われた。お互いが神様との交流を願い、親先生との交流を願い、所謂金光大神との交流を願う、そこには勿論身も心も任せようというのであるから、帰依がなからなければ出来ることではない。合楽ではそういう意味で、合楽の魅力とでも申しましょうか、もう発散させておるという事実である。私の話はそうです、皆さんに認めて貰いたい、皆さんに信じて貰いたい、皆さんと交流したい、と私はそういう事だと思うです。
 今朝から私が頂いた、大漁志香野さんのところに養子に行くというのは、もうそれこそ養子でもよい、来て貰うてもよい、どうかして皆と交流したい、大漁と言う事は沢山のお徳を頂くと言う事でしょう。それこそ徳の薫りが芳しいものを志香野というのは感じます。こちらから行ってでも、こちらから頼んででも交流したい、魅力のすべてを、いうなら一糸まとわず、真っ裸で00さんいつでもよいからという、お知らせを頂いたといわれるのです。まあそれとこれとを思い合わせてです。
 如何に親先生えの帰依と言う事、親先生とのいうならば交流と言う事、どういう時にどう言う風にして交流するのであろうか。昨日こんど学院にまいります、こんどの志望の方のお話しを致しまし。何十年間愈々一心発起、お道の教師にお取り立て頂く事に腹が決まりました。そして自分の一生をふり返ってみたら、もう本当に自分の親不孝者はもう外にあるまいという程しに分かって来た、ありありと分かって来た、自分というものが分かって来た。一心発起いうなら全身全霊を神様に捧げる。
 それが如何に捧げてもで、神様がいらんと言うて向こうむきなさりゃそれ迄のこと、まず神様に捧げる私というものはです、まずは自分自身が自分の様な親不孝者はなからうと、言う様な分からせて頂くところから、もうこれ以上の親不孝は出来んと言う事になります。そこが出発点です。昨日の御理解を頂いて幾人もの方がです、本当にこの自分程親不孝の者はあるまいと分かることが主なのです。難しいんです。
 自分はそげん親不孝しとらん位な考え方しかなか、もううちの親に親孝行しようと思うばってん、家の親には親孝行はされんと、もう親が例えば赤とか黒とかそんな事は、問題ではないのだ。親が良いとか悪いとかではないんだ、子としていうなら自分ぐらい、親に心配をかけ親不孝したものはあるまいと気づかせて頂いたら、朝から涙がこぼれて仕方がないと、交流しよるんです。
 そこが分かってくれたかという神様の喜びが、一日そのことを思うたら涙がこぼれると、神様との交流との有り難さ、それから又生みなされることの有り難さにつながるのです。昨日は上滝さんところの謝恩祭、もう三十年からの信心、もう細々ながら宅まつりが一月二十四日に必ず続けられました。本当に四人上滝さんが亡くなられて、一番下が二つ位だった。それに二つ伏せ位で、四人の子供達が百姓をしながら。
 小さい小商いをしながら、もうそれこそ一生懸命人が笑おうが、そしろうがもう子供達を育てるのが精一杯ですが、もうどうにも出来ない、はばからんことは親先生任せ、もう一切を親先生に縋っての今日、昨日私はここ二三日、阿倍野の伊藤先生のお話、こんどの五十五年の記念祭に出版された、この頃大阪から先生が持って来て下さった、それを中頃まで読ませて頂いております。
 それにお道の信心をさせて頂いたら、言うならばもうどんなに一家中が暗澹たる親子心中でもせねばならぬところから、御神縁を頂いて信心させて頂きよったら日勝り、勝りにおかげを頂いて行かねば嘘だ、信者のところに宅祭りに言った所に達磨さんの軸が掛かっておった、だからそれに七転び八起きと書いてあったから、この軸は取り外しなさい、もうそげん七転び八起きしよったら一生が仕舞える。
 金光様の信心しよりや一年一年有り難うなって行くと同時に、一年一年繁盛のお陰につながって行くから、その軸やらはいらんというて、という話が出とりました。おかげで皆が家族勢を揃えて信心する様になる。去年の元旦の祝賀の御礼参拝には三千人のお参りがあった、十輛編成の三車輛、もうそれこそ家族中が日勝り月勝りのおかげを頂いとる、家族中の者がお参りするんだそうです。
 会社ぐるみにお参りする、三十人の社員が居れば三十人がお参りする、五人の家族の者は五人がお参りする、 何故参るかそれこそ間違いなく、日勝り月勝り年勝りのおかげを頂くから、徳の相違はどうにも仕様がない。私の場合にはそうそうおかげをお取り次ぎしきらんから。そこで皆さんに力を頂いて貰はんならん、そこで皆さんに成り行きを大事にして行きなさいよ。
 一切を神愛と受けて、最近ではいうならば御神願有り難うございます、と言うて頂いて行きなさい、大変難かしいけれどもそう頂いて行かねば、信心が血になら、肉にならんおかげにならん。というふうに説くのがあいらくです。それでもねやはり私の言う事を信じ、私えの一つの帰依がなからなければでけません。泣く泣く辛抱したんぢゃおかげになりません、そのことを私は昨日上滝さんのお家で話したのですけど、ここえ三十年間毎年ここえ参って来るたんびんにです。
 子供がおかげを頂いて大学に入る卒業した、結婚したもうその頃から段々家が段々新築になった、一部屋増えたまたおばあちゃんの隠居場が出来た、周囲を合楽と同じに回廊、家の周囲を全部回り廊下にした、隠居処と住居の方の真ん中に小さい気の利いた庭にした、と言う様に一年歳々おかげを受けておるという事実です。もう私は昨日あんた位理詰めの良いものはおらん、もう人が何と云おうが自分の意志をまげず。
 あぁ女手一つでしかも九十に近いおばあさんを抱え、四人の息子は立派にそれ相当の教養を身につけさせて、嫁を取ってやり、嫁にやりそしてね、そしてこれはいつもたまがるですけど、実に教育が嫁に対する教育、孫たちに対するもう孫たちが四人揃ってピシ一ツと私が参りますと。私達の控えに挨拶に来ます。これは必ず来ます。その挨拶の仕方でも、チヤンとおばあちゃんが教えとる通りにやります。
 そして皆出来が良いです。本当に一年歳々おかげを頂いて来た、一つもどんぶりがない、おかげを頂いとるだからあんたは阿倍野の先生のごたるばいと私がいいます。阿倍野の先生がそういう信心をして来られた、阿倍野の先生の信心のいうなら真髄というか金光様の信心とは、実意丁寧親切正直、れが金光大神の姿だといっとられます。だからその実意丁寧、親切正直というものを貫いてきておられる。唯なら阿倍野の先生と上滝さんの違いはどこかというと、あんたがなら三十年間振り返ってみるとです。
 ほんにお父ちやんが亡くなって、あぁじゃったこうじゃったと、本当に苦しい血の涙の出る様なことがずうっと続いたけれども。神様にお縋りをして、今日この私があるというのが、あんたの心の状態じゃろうがて、ところがね阿倍野の先の場合はね。この私が読んでおる本に書いちゃる様に、お道の教師としてお取り立ていただいて五十五ねんになる、五十年目には中近畿の教務所から五十年勤務の金杯を頂いた。
 その五十年間の時にいうておられることが、五十年の間に一日とてです、苦しかったとか悲しかったとか、無かったというておられます。もうその五十年間がまるごとそのまま有り難い五十年であったと、所謂五年前に話とられます。ここが上滝さんの信心と阿倍野の先生との違いだとこう言うのです。御教えにあれもおかげであったこれもあかげであったと分かる様になると真実の信者ぢゃとおっしゃる、あとから分かるあぁあれもおかげじゃった事が分かる。
 その時はやっぱり苦しかった、ふり返ってみるとあの時は血の涙の出る思いがしたけれども、神様にお縋りをして今日の上滝の家があると思う。まあいうなら本当の信心、所が阿倍野の先生の場合にはね、あれだけ大きな教会の、あれだけ御比礼の終戦直後には夜の御祈念に三名しかお参りがなかった時代が続いたと書いとられます。それが今日毎日二千名のお届けがあると言う事、御本部参拝ともなれば、ならこの祝賀の元旦祭には、三車両をつらねて、三千人の者がお参りが出来ると言う様な、おかげを頂いておる。
 それを私五十年間ふり返って見て、一日とて有り難く無かったとか苦しかったとかはなかった。もう日々が有り難い勿体ないの連続だったと、言う所に先生の信心の偉大さがあるのです。難儀が無かった筈はないです、普通で云うなら血の涙の出る様な腹立つ様なことがあったに違いないですけども、ですけどそれを即ちおかげと頂いとられるのです。そこが違うんですね。私は昨日本当に嬉しい事を聞かせてもらった。
 昨日研修の時に、阿倍野の先生と泉尾の先生と対比しながら、その両方の先生の素晴らしいところを、全然行き方が違いなさるんですね。こっちはもう有り難い有り難いで行かれる。こっちは自分の様な鈍物、ギリギリの所え自分というものを追い詰めておられる、そして自分の様な鈍物にでも神様が願わずにはおられん。縋らずにおられんと言う信心からおかばいにおかばいを下さって。今日の泉尾教会があるというてある。
 片一方はもうりくつはぬき、もういつもお話をする様に、それこそお魚の頭だけしか出らんでもおかげ、尻尾だけでも有り難い、真ん中なら尚有り難いというて、いう行き方をつけておる。小学校の一年生から、師範校を卒業されるまで無欠勤、もう休まれた事がない。そして優等をずうっと続けておられる優等生。自分が小学校に奉職した時に、もうとにかく学問の基礎というものは、小学一年生にあると思うてその基礎作りを一生懸命にした。校長先生の試験がある時に全員が九十八点ぢゃった。
 もう前代未聞皆が甲の組ばっかりぢゃったげな、五十名の受け持ちの子供、如何に教育と言う事が徹底して、徹底した教育と神様のおかげ頂いてと書いておられます。どんなにぼんくらと言う様な者でも、教育の仕方ではそういう教育も出来る。だから信者でもそういう素晴らしい教導力をもって教導すれば出来るわけですね。もうとてもとても私共で出来るわけがない。いつも私がいうですね。十数年間憧れに憧れておった、泉尾の先生の或るキッカケが出来た時に、先生にお会いに行った。
 そのお会いに行った時は丁度期せずして、あちらの50年祭の日にお会いに行った。で今日ではとても行ってもテンヤワンヤしているだろうから、明日行きなさいという泉南の先生のあれで、泉南の教会に泊めて貰って、そしたら明くる日寝ている間に、阿倍野の先生と若先生と二人で泉南に見えたんですからね。愈々驚く事はですよね。言うなら京都の親教会に、参拝させて貰おうというのとは、全然反対の所にある泉南に、もしあれが私ならばです。ほう九州から大坪と云う先生が自分を訪ねて来ておる。
 なら電話を掛けてから、私は朝の何時までに親教会に出らんならんから、何時迄に来て下さいというて電話掛けたでしょうね。先生の場合はわざわざいうならば、まだ名も無い田舎教師の私のところに、わざわざいうなら阿倍野から泉南まで会いに来て下さった。本当にその十数年前に金光様にお届けしとられる。本当に金光様おかげを頂いて有り難うございますと、お礼をいわれるあの様子を拝まして頂いて、こういう有り難うございますと言う事が、何処から出て来るであろうか。
 皆さん今あの先生がいわれた有り難うございますから、あの広いお広前に何千人の人をつれて、お参りしておられるこの人達が助かっておるんだよと、当時の合楽の信者さんに話した事でした。その有り難いというものがです。言うなら一つの憧念心ともなって、阿倍野の先生にお会いする事が出来た。その時のお話をです甘木の教会で話しておられる。甘木の七十年記念祭の時に、二、三年前がそうだったですね。
 この御本にも書いてある。親子孫であちらの先代が、甘木の教会で五年間修行して大阪に布教に出られた。だから本当云うなら、甘木の教会が親教会と言う事になる。で記念祭の様な時にはお礼に参拝される訳でしよう。丁度十日ばかり前に、甘木のここの学院生と同期の青年教師の方と、此処にお参りしてきとりました。私は一人かと思うとりましたら、あの甘木の教会で十五年間修行しとられる先生と一緒にみえて、そして此処の先生方二三人で信心の話会いをした。
 勿論その中には合楽は悪名高い訳ですから、そう云うことを指摘されて批判的なお話であったとそういうわけなんです。それでまあ末永先生やら、竹内先生やらいろいろお話したその中にね。その先生がこう言う事をいわれた、先年阿倍野の先生が見えられてこちらの先生が、阿倍野の先生に面会にお出でられた事があるそうなが。もうこの時の事をですね、阿倍野の先生が一通りではないお喜びであったと。
 もう一通りの喜びではなかった、自分の様な者のところえ九州から唯その為に、私に会いに来て下さったという話をです。もう一通りではない喜びであったと、十五年間修行しとる先生が言っておる。そして合楽の先生は現代に、生神金光大神を現しておられる人だと、言われたと言う事を聞いたんですね。いうなら現代に、教祖生神金光大神を現しておられるのが、合楽の先生だと。
 たった私と先生と一度お会いした、しかも一時間のしかもお話会いした話でもない、唯両方から有り難い、有り難いそれこそ横に居られた、高橋さんがもうその代わり両方から、米つきバッタの様に頭のお礼の仕合だった。そして一時間その時にです、私と阿倍野の先生の間に交流したものを私が感じたと、私が頂いて来たというだけでなくてね、阿倍野の先生が頂いておって下さったというのが嬉しいのです。
 私がどうして現代の世に、生神金光大神の御神徳を現せる筈はありません。けどその様な受け止め方をして下さっておっ。私と阿倍野の先生がその時に一時間の間に交流した有り難さというものが、こちらだけが頂いて来たと思うて居ったら。阿倍野の先生も頂いておって下さったと言う事が私は嬉しかったんです。昨日たまたまその話が出た、末永先生から聞かせて頂いて、本当に愈々こんどの大阪行が楽しみになって来るです。信じ信じられる、こんな有り難い事はないです、一遍しかお会いした事はない。
 然も一時間しか会ってないもう実意丁寧親切、そして正直と言う事を教祖様と言っておられるなら、私も実意丁寧親切正直、果たしてそうであるかともう、どれを取っても阿倍野の先生の足許にも及ばないことである。それから先生を送り出して後で聞かせて頂いたら、反対の方向であったと聞いて、愈々その実意丁寧さに驚いてしまったのですけど。それから早速用意をして阿倍野の教会にお礼参りをした。
 勿論先生はお留守でしたけど、お礼参拝したら記念祭の後片付けのテンヤワンヤしてある中に、もう合楽の大坪でございますとお届けをしたら、暫くお待ち下さいと言って若奥さんが出て見えた、こんな大きな風呂敷包みを持って見えた、そしてこれは昨日のお下がりでございますけど。というてお土産をことづけた、もう出掛けにちゃんというておられる。大坪先生がお礼に出て見えるに違いないから、お土産をこうして用意しておきなさいよというてあったに違いないです。
 とてもとても行き届くというか。実意丁寧とにかくもうお話にならんくらいです。とても真似しようとして出来ることぢゃあない。そういう教祖の信心を身につけておられる方が、私を評して現代の世に金光大神を現しておられる方だと。言うならそう言う事を聞いてから、実意丁寧親切正直というて、どこが正直なのかどこが実意なのか、どこに私の親切はどの程度かと思うた時に、それこそ穴があるなら入りたい思いがするのですけれども。私はその交流する事が素晴らしいのです。
 私だけが頂いて来たと思うておったら、先生も私をその様に評価し、その様に有り難いものとして、受けておって下さったと言う事がね。金光大神の言う事に背かぬ様、なら背かぬ様にいうて帰依もしないものに、背かぬわけには参りません。右と思いよるとに左、ハイという訳には参りません。金光大神のお言葉を信ずるから、ここで言うなら親先生を信ずるから、親先生任せにもなれるというわけである。それこそ身も心も任せる。そこからです本当に生み成すお陰が頂かれる。
 そういう見地からですなら、私が今朝から頂いたお夢。そのお婆さんが頂かれたというそのお夢を思うて見て。それこそ合楽の全魅力を発散しながら、皆さんにどうぞ交流を求めて居る事を、皆さんが求められたらもっともっと私を大切にしなされにゃいかん。そうぢゃなくて私をもっともっと研究して貰はにゃいかん、私というものをもっともっと知って貰はなけりゃいけない。
 例えば朝の御祈念、例えば一時間なら一時間で、私はここに座らせて頂く、先生は時計も持ってなかとに、どうしてあげんきちっとする事が出来るぢゃろうか。久留米の稲垣さんがその事を思われたら、神様から親先生は懐中時計を持ってござると頂かれた。心の中にいうならば時計を持ってござると頂かれた、ならこの一事からでもです。これは私の魅力を発散させて頂いているのです。皆さんにいや親先生と云う方は間違いないな、一分一厘間違いないな、その事からでもいうならば私は魅力を発散しているんだ。
 そして皆さんが受けられる体験の上にです、親先生任せになっとけばと、それは私の魅力を発散させておるんだ。その魅力に皆さんが応えて下さるおかげを受けて、生み成す働きが出来た時にです。それこそ神からも氏子からも、大坪総一郎は両方からの恩人と言う事になって来るのです。上滝さんの理詰めのよい信心、そして三十年間それこそ営々として今日の上滝家を築かれた。しかも女手一つでしかもそれがどんぶりがない。ずっと一年勝り代勝りのおかげを頂いて来られた。
 そこで上滝さんこれを合楽流でいうと、善導寺、勿体島、椛目、常持と来とる様なものだから、もうすぐそこに見えておる。言うならば合楽理念に徹した、言うならばおかげを頂いて行く事があんたにかけられた信心。そこから言うなら神様と合楽しあえる信心。そういう信心に依って生みなされて来る、おかげが本物であろう、それが子にも孫にも伝わる信心になる事だからというて昨日話した事でした。
 阿倍野の先生の信心とあんたの信心は本当によく似とる。ただ違いはねあんたはお道の教師ではなかったと言う事、と同時に何十年間一年一年おかげを頂いて来とるけど、振り返って見ると、あの時は血の涙の出る様な苦労をしたけれど。今日はこんなおかげを頂いて有り難い、阿倍野の先生はその五十年間という、自分を振り返られた時に、その五十年間の中の一年だって有り難く無いという年はなかった、一切すべたが神願として受けて来られた、有り難いとして受けて来られた。
 そこに言うならばおかげの世界と徳の世界との相違があるというわけであります。私の言う事をいうならば信じて下さい。だから私が発散している魅力をです、魅力と感じて下さる、そこから親先生に身も心も任せられる。こっちは何時でもよか、直っ裸になって迎えておる程しの、言うなら状態が合楽の姿ですから、それに向かわれる、いわば信心そこに親先生の帰依、その帰依そのものが交流だと言う事を今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。